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みやぎ自殺対策シンポジウム2007(2007年8月25日 於:仙台市シルバーセンター)
自死遺族の声を聴く 三上なつよ

 本日はお話できる機会を頂いた事に感謝致します。
 私には三人の子供があり、自死した息子は二男でした。二〇〇五年六月家出をし、十月彼は自分の車の中で排気ガスにより享年三十二才の命を自ら終わりにしたのです。
 三十代と云えば夢もあり希望もまだまだあったはずだし、なにかのトラブルがあったとしても、充分にやり直せる年なのに、なにがあったのか、なぜなのか、そればかりが今でも頭の中でうずまいて彼を探し出せなかった自分を責め続けています。
 彼は「自分の人生から逃げます」と云うメモを残しています。「ダメな息子ですみません」とも書いてありました。
 母の私からみた彼はダメな子ではまったくなく、むしろやさしすぎたし、いい人すぎたのです。生きる事に正直で真剣に生きていたのです。なぜ、自分の人生から逃げなければならなかったのか、その理由は未だに分からなく、そしてもう彼に訊く事もできません。
 家出をした夜、彼は明るく私と雑談をし、笑って出て行ったのです。残されたメモを見た時にも、私は自殺に結びつける事ができなかった愚かな母でした。死にものぐるいで彼を捜していたなら、彼を自死させる事はなかったのです。誰よりも大好きだった大切な息子の命を私は見殺しにしてしまったのです。
 彼は生まじめな性格ではあったけれど、ユーモアもあり、とても穏やかな子供でした。小学生の時は空手を習っていて、お兄ちゃんとケンカになると、「空手をしてる人はケンカしちゃ駄目なんだよ」と目にいっぱい涙をためてガマンをしていた姿が目に浮かびます。自死をすると決めた時、あの頃のように何か辛い事にじっと耐え、なぜか三十代の彼と小学生の彼とが重なってしまいます。あの頃、彼を抱きしめたように、見えない姿をだきしめてはみるものの、頼りない感触に無性に会いたくて・・・・・・。ただ、むなしさと淋しさだけが残ります。
 水道設備の仕事についてから約十年。必要とする資格も全部取り、彼の夢は水道のない所に行って、水道を作る事でした。テレビで水道ができて、大喜びしている人々の顔が映し出されると、まるで自分が作ったかのように、「お母さん、ああいう顔に出会えるんだよ、いいよね。俺、絶対行きたい」と話していたのに、そんな話をして一年も経っていないのに、「あなたに一体何がおこったの!!何があったの!!」私の問いかけに、笑顔もなく、声もなく、ただ淋しそうに、遺影の彼はほほえむだけなのです。
 警察での遺体確認後の私の心は不思議なものでした。立つこともできず、泣き叫ぶ私を、娘と婦警さんは、私を抱えながら車まで連れてきてくれました。家族が話を聞かれている間、私は一人車の中で身動きもできず、訳も分からず、なぜ!!なんで!!と自問自答をくりかえしていたのです。どうしても答えがほしかった。ようやくたどりついた答えが「私が息子を殺したんだ」と云うことでした。その想いは今も心から離れません。
 それからは泣くこと話すこと考えること生きることさえ私の意識の中にはなく、今思えば、なぜなんでと息子に問いつづけ、なぜ自分が生きているのかが分からない。体と云う物体のみが勝手に動いていて、「もうどうでもいいや」と動くその物体に早く止まるよう願っていた、そんな日々だったと思います。
 人は死にたいからと云ってなかなか死ねない。かんたんに自死はできないものですね。
 「もう限界だよ」と息子にいいながら新聞を手にした時、目にとびこんで来たのが、「いのちの電話」という大きな文字でした。ふしぎに思いながらも、「ここに電話しなければ」と無意識に電話した事をはっきり覚えています。
 これが「いのちの電話」へとつながります。
 「もう生きていけないかもしれない」そう告げた気がします。
 担当してくれた田中さんはやさしく、そしてさりげなく話を聞いてくれて、そのあとも電話やお手紙をいただき、私は命をつないでもらった気がします。
 今思うと、自分の心のコントロールができず、記憶も曖昧な時、田中さんの声は「生きるのよ」とささやいているようで、それで命をつないでいたのかもしれません。そして、「藍の会」を教えていただきました。
 「いのちの電話」から「藍の会」へとつながります。代表の田中さんへ電話をしたのです。代表の田中さんもまたとてもやさしくて、ひとこと話すだけで全部を分かってくれているようで、離れていた心が戻るような気がしたのです。電話のあとすぐお手紙をいただき、その手紙は、生きる気力のない私に、私が親である事を気付かせ、生きる意味さえをも教えてくれるものでした。
 こうして私は偶然にも二人の田中さんに命をつないでもらったのです。それも心がきれかけた頃に電話や手紙が届き、私は生かされていました。今、こうして話をしている事が一年前にはとても考えられない事です。お二人に助けられた命です。言葉にできないほど感謝の気持ちでいっぱいです。本当に、本当に、ありがとうございます。
 「藍の会」の人々とつながった事で私は生きようと思えたし、ゆれ動く心をなんとかコントロールする事も覚えました。そして皆さんから勇気やパワーをもらい、励まされています。時には落ち込み ながら、「それでもがんばる」というかぎりない優しさにふれる事ができ、私の命は今、元気にしています。
 「藍の会」のみなさん、悲しいつながりではありますが、私はつながれた事に感謝しています。そしてみなさんにも心からありがとうございます。
 幸い、仙台には自死遺族へあたたかい手を差しのべるグループが三つもあります。それぞれの違う立場から、支えてもらえる事はとてもうれしい事です。ただ、遺族といってもさまざまな立場があり、問題を抱えてそれを解決しなければ哀しむことすらできない場合もあります。そして糸口すらみつけられず、絶望し、自死へつながる事も。でも、それは助けられる命ではないかと思うのです。
 たとえば私の場合、「いのちの電話」から「藍の会」へとつないでもらった事で、今生きています。もし、「いのちの電話」だけで終わっていたら、私は息子の後を追っていたと思うのです。自ら「わかちあいの会」をさがそうとは思っていなかったし、彼の所へ行きたかった。でも、私にはわかちあいが必要でした。
 このように、何かとつなげてもらう事はとてもありがたい事です。もう少し望みを言わせてもらうなら、どうか「かたち」にこだわることなく、中味のある会であってほしいのです。そのためなら、私達 遺族も何かの役に立ちたい、哀しみだけのわかちあいではなく、遺族が抱える問題もうけとめ、それらの解決のためのつながりをもあわせもつ会、それが本当の自死遺族支援になるのではと、私は希望したいのです。
 お互いのグループが共に尊重し、認め合い、助け合いながら、せめて仙台から自殺予防への大きなひろがりが発信できるようなそのような会が運営されることを心から願っております。
 身内から、「家族の恥は隠しておくもの」と云われます。家族の恥とは自死した者への言葉なのか、それとも自死された者への言葉なのか、両者かもしれません。
 「自死は恥なのでしょうか?」
 決してしてはいけない事ではあるけれど、彼は一生懸命生きたのです。最後まで生きようと思っていたはずなのです。でも生きられなかった。家族とて誰が自死させたいと思うでしょうか。誰しもが一緒に楽しみ、一緒に苦しむ事を願い、支え合って努力し、生きているのです。そのような言葉をかけられたなら、口をつぐみ、自死した者を忘れようとし、思い出の中にさえ、入れてもらえなくなるのです。言えないことが心の重い蓋となり、苦しみや辛さからなかなか抜け出せないし、生きる気力さえなくしてしまうのです。思っていても、口にしてほしくない言葉です。
 今、このようなさまざまな言葉をかけられて苦しんでいる人、また、せめて自分だけでも想いを口 にしたいと思っている人がいたら、一度でもいいから、「どこかのわかちあいの会」とつながって、その想いを口にしてみてください。つながる事によって、少しでもあなたの命は元気になれる、私にはそう思えるのです。
 そして、今死にたい、死のうと思っている人に言いたいのです。
一人で苦しまないで下さい
助けてと「声」にして下さい
もう誰にも自死してほしくないのです
生きて下さい 行きぬいて下さい
私のこの姿は自死された母の姿です
あなたが自死すればこのような姿が
沢山沢山生まれてしまうのです
死なないで下さい 生きて 生きぬいて下さい
その命はあなただけのものではないのですから
今をのりこえれば あきらめなければ
いいことがきっときっと待っているはずなのです
生きるために あなたは生まれて来たのですから
 「藍の会」へつながるまで、私は生きている実感はありませんでした。もちろん、息子の死に対峙しようとはまったく思っていなくて、むしろ息子の死はなかった事にしようと逃げていた部分がとても大きかったと思います。代表の田中さんの配慮でさまざまなキッカケを作っていただき、自分の想いとは関係なく、そのキッカケに参加した事によって、知らず知らずのうちに今では息子の自死に正面から向き合っているような気がします。
 この一年の私の歩みは全て息子の采配によって行われたつながりだったのではないかとも感じております。彼は死んでなお、私にいろいろ助け舟を出しているのだから、それをきちんと受け止め、私は彼に恥じない生き方をしなければならない、そう思えるようになりました。前を見て、きちんと生きていきたいと思います。
 ありがとうございました。

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