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みやぎ自殺対策フォーラム2007(2007年9月20日 於:宮城県民会館)
自死遺族の声 田中幸子

 こんにちは、田中幸子といいます。
 本日は知事をはじめ、行政の方々、たくさんの心ある方々においで頂き、この壇上でお話しができます事に感謝をしております。実は厚かましく真ん中に立って話したかったのですが、主催者側のご配慮で座ってということになり、このまま座って話します事、お許し下さい。話したいことがたくさんあって、迷いました。憤って憤って過ぎた一年半でした。本日は自死で息子を亡くした母としてお話しをさせて頂きます。
 自死、耳慣れない言葉と感じる方もいらっしゃるのではないでしょうか。皆さんはどんな事を想像しますか?苦しみから逃げた人、勝手に死んだ人、死ぬ位なら、とか弱い人と思う人が多いのではないのでしょうか。私も正直、「死ぬなんて!!」と漠然と思っていました。
 二〇〇五年十一月十六日夜十一時頃自宅の電話が鳴るまでは・・・幸せいっぱいでした。亡くなった息子は結婚していて、子供にも恵まれてトントンと出世して、主人も次男も私も健康で病気をしたこともなく、温泉旅行だカラオケだ、孫を連れて遊園地だ動物園だと毎日幸せな不平不満を言いながら、結婚三十五年を迎えようとしていました。幸せでした。
 あの日の夜は満月でした。突然の電話・・・主人が電話を取り、「死んだ!!」「健一が!!」と次男も起きてきて、「死んだ!!お兄ちゃんが!!」としゃがみ込んでしまいました。私の頭の中は「死んだ!!誰、なぜお兄ちゃんが!!」と三人呆然自失の状態でした。夢なのか現実なのかとにかく確かめよう・・・と車の運転は無理としてタクシーで駆け付けました。官舎に入ろうとしたら、「検死しています」と言われ、突然、生前息子から聞かされていた検死の様子が浮かび、「死んだ!!」と現実になり、気を失ったのです。
 息子はフトンに寝かされていました。生きているような顔、でも冷たくて頬に手をあて、息子の血と私の血を取り替えて、と願って・・・冷たい息子の頬を両手で包みなでて、私の命と取り替えて、今すぐ私を死なせて息子を温かく生き返らせて・・・とどんなに手をあてて温めたくても冷たくて冷たくてピクリとも動かない息子。カーチャン、カーチャンと私を呼んでいた息子。
 亡くなった年の五月、多賀城市で飲酒運転によるRV車の事故、高校生が三人亡くなった大きな事故、あの事故の事故処理係長が息子でした。四月に転任して五月の事故でした。あの日休みだった息子は呼び出され、それから自宅療養になる十月までの四ヵ月半、一日も休みことなく働く事になったのです。
他の事故も重なり、山のような仕事に追われていったのです。「誰かに手伝ってもらったら・・・」と言う私に、「皆んないっぱいいっぱいなんだよ!俺の仕事だから仕方ないよ」と何度か言っていました。誰も手伝うこともせず、見て見ないふりをして夜遅くまで仕事をしていると「わざとらしい」とか「まだ出来ないのか」と言われ、朝早くに出勤して今来たかのように回りに気を使い、仕事をしていたようでした。転任して初めての仕事の息子に上司命令で仕事のやり方も教えることもせず、手伝う事もしないで、「田中の仕事だから・・・」と無視を続けていた人たち。そのうち、パトカーの音がすると夜中に飛び起きるようになり、めまいや吐き気がして仕事の合間に病院に通っていました。
息子の話を聞いて、私たちが精神科を勧めたのが九月でした。そして、市内の病院に行き、彼は又傷ついたのです。「田中さん、ここが名前を書く場所ですよ、わかりますか?」「読みましょうか・・・」と言われたのです。「俺は現職の警察官だ!!」と憤り、精神科を拒み、職場に近い心療内科に通ったのです。十月になり、自宅療養という形を取りました。そして又彼は家庭で「何を考えているんですか、どうするつもりですか。ゴロゴロ寝てばかりいて子供の面倒も見ないで仕事もしないで・・・」と言われ続け、「ごめんなさい」と謝る息子は更に叩かれ、ヒステリーに物を投げつけられていたのでした。亡くなった直後に告白されました。「お義母さんすみません、言われていた事と逆のことをしていました」と謝る姿に孫の事もあるので、何も言うまいと思ったのです。息子の携帯に同じ内容のメールが何十通もあり、その返事のメールもあり、その内容は「すみません、ごめんなさい、申し訳ありません、頑張ります、もう少し待って下さい」そんな言葉が何十通も続いていました。
人生最後の一週間、ひとりぽっちで何も食べず、飲まず、連絡を断ち、信号は送ったのに無視をされ続け、それでも玄関のドアにはカギはかけずに最後の一瞬、誰かに止めて欲しかったのでしょうか。一度ではなく、数回ひきずった後が残っていました。彼のメガネは涙の塩でまっ白でした。メガネが白くなるまで彼は泣き続け、黙って逝ってしまいました。
息子が亡くなって二週間で今度は私を罵りました。嫁とその両親に「人殺しです。息子さんを殺したのはあなたです、教養のない女、葬式の時に泣いてばかりいてバカな女だ」まだまだたくさんの罵声を浴びせられました。「仏壇も位牌も要りません!!」と言い、莫大な金額の生命保険、退職金、埋葬金さえも持ち、「保険金で二世帯住宅を買いますから、もう娘には一切かまわないで下さい!警察に訴えますよ!!」と意味不明なことを言い、実家に戻って行きました。それからは着信拒否やハガキの受取拒否をされ、親の私たちに残ったのは、遺品もなにも無く、遺骨だけです。反論はしなかったのです。「お兄ちゃんは争うのが嫌いだから、死んだんだよ!お兄ちゃんの遺骨の前で争うのはやめな!」と次男に諭されたのです。
息子は死んで骨になり、身ぐるみはがされ、裸で放り出されたようなものです。いろいろな人たちに相談をしました。法律も心あるものではありませんでした。息子は何か悪い事をしたのでしょうか。逃げたのでしょうか。勝手に死んだのでしょうか。
仕事、病院、家族、全て人間関係です。私も含め、ほんの少しの思いやりがあったら、助けられた命、助かった命でした。
三十四年生きた彼は遺骨になり、私たちのところに戻って来ました。私たちは息子の死をかくそうと思った事は一瞬もありません。葬儀の席で夫は「息子は自らの手で人生を終えました大バカヤローです」と語りました。大切な我が子の死、死んだという事実だけでいっぱいでした。亡くなったことが全てでした。
死に差別があるのでしょうか。病気や事故は語れるりっぱ?な死で、自死は恥ずかしい死でしょうか。魂は平等です。生きている私たちの心の中に差別があり、それを神さまや仏さまの社会のせいにしていないでしょうか。楽しく笑って死ぬ人はいません。死は人間が最も恐れるものです。だから病気だ、病院だ、薬だ、終末医療だ、とか言われるのではないでしょうか。好んで死んだのでもなく、勝手に死んだのでもないのです。「生きられない!!生きていられない!!」と絶望に追い込んだものは何でしょうか。その問いかけを生きている私たちがしっかりと受け止め、やさしい人たちがやさしいままで生きられる世の中にする責務が私たちにはあるのではないでしょうか。
人のせいにしない事、社会が悪いとしたら、自分もその社会の一員なのだと自覚して、社会や周りに変わって欲しい、ではなく、まず自分自身をふり返り、自分が今よりほんの少しの思いやりを持てたら、社会は大きく変わることになるのではないでしょうか。
語れない死でしょうか。亡くなった人たちが生きている私たちを見ています。言葉は大切です。ほんの少しのやさしい言葉が人に生きる力を与え、傲慢な言葉は刃物よりも心を深く傷つけ、手を汚すことなく、人を死に追いやります。完全犯罪の殺人です。いつか自分にこの問題が起きないと誰が断言できるでしょう。私もひと事だったのです。息子を亡くして半年で藍の会を立ち上げた時から、支援とは、ケアとはどういう事なのかを考えています。支援します、という団体に丸投げをしてお茶を濁すのではなく、地元の遺族の声を聴いて下さい。生の声、現実を地元を見て頂きたいのです。
私の命より大切な息子を助けられなかった気の遠くなるような人生の大失敗の話しと、反省と悔やみの中から見えて来た事を聴いて下さい。宮城は今多くの遺族の声が表に出ています。お願いです。無視や見て見ないふりをしないで下さい。せめてここにいらっしゃっている皆様方お一人お一人が少しだけ、今よりほんの少しだけ人を思う心を持って頂けたら、大きな自死予防になり、たくさんの命を生かすことになると信じています。
悲しみは回復はしません。悲しみと共に生きることが出来る力を心に持てるようになること、自分の心に栄養を、それが前向きに生きるという事なのだと思っています。私は息子を誇りに思っています。息子は真面目に頑張って一生懸命生きました。本日はありがとうございました。

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